INSIDE-03 R390GT1Logo ISSUED :1997.5.28
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REVICED:1997.5.31
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[ INSIDE OF R390 ]
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往年の名車、R380をふりかえる
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R380 photo1  「R 390GT1」という車名は今から30年以上も前に日本モータースポーツファンを熱狂させたクルマの系譜に連なる伝統のネーミングなのである。そのクルマの名前はR380。今、改めてR380についてのエピソードを紐解いてみるのも悪くない。

 1 964年5月、鈴鹿サーキットで開催された第2回日本グランプリ。必勝を期して送り出したスカイライン2000GTは思わぬ伏兵と出会うこととなった。そのクルマこそ、当時、世界最新鋭最強の純然たるレーシングマシン、ポルシェ904GTSであった。  レースはポルシェの勝利に終わったものの市販車にすぎないスカイラインGTの健闘ぶりに、誰もが拍手を惜しまなかった。しかし、当時のスカイラインの設計者、桜井真一郎は釈然としないものを感じていた。「市販車ベースのクルマでは勝てない」との思いである。  この状況はある意味で95、96年のルマンをスカイラインGT-Rで出場するも、ポルシェやマクラーレンがGTプロトタイプカーを投入してきた状況と驚くほどよく似通っているといってもいいだろう。

  の雪辱を晴らすために打倒ポルシェ904を目指して開発されたのがR380なのであった。  R380は翌年の第3回日本グランプリを目標に開発が進み、ポルシェ904を上回る性能を有すまでとなったが、喜びもつかの間、第3回日本グランプリには904を上回る性能を持つポルシェ906が出場するという。ところが幸いなことに肝心のレースは1年延期されることとなった。一方、当時の日本レース界にはレーシングプロトタイプカーであるR380が出場できるようなレースは全くなかった。そこで彼らはR380熟成の場を(財)日本自動車研究所のテストコースでのスピード記録挑戦会に求めたのである。7種目に挑戦し、4種目に従来の国際記録を上回ったが、タイヤトラブルにより目標の200マイルまで完走できずに中途半端な記録ななってしまった(その後、67年に改良型で7種目全てにおいて国際記録を塗り替えた。)。しかし、このことは対策を行うことで、第3回日本グランプリに万全の体制で臨めることになったのである。

R380 photo1   3回日本グランプリはそれまでの鈴鹿サーキットから65年に完成したばかりの富士スピードウエイで開催されることになっていた。桜井は富士のコースを子細に検討し、R380に富士スピードウエイに最適なセッティングを施すとともに、ブレーキ開始点、ギアチェンジのシフト点を指定したコース図をもとにコースを占有して練習を積み重ねた。  そして迎えた1966年の第3回日本グランプリ。勝利への秘策はこれだけに留まらなかった。レースは一周6kmのコースを60周するという耐久レースであったが、途中、必ず実施される給油作業に独自の工夫があったのである。  レース開始後2周目には2台のR380がポルシェ906を大きくリード。中盤31ラップ目にポルシェがピットイン。20リットルのガソリンを1分近くかけて携帯タンクからジョーゴで給油。 一方、38ラップ目にピットインしたR380は天井に通された梁からつるしたタンクから給油することで20リットルの給油を15秒で終了。その後、R380はゆうゆうと首位を独走し優勝したのであった。

  ースとは車両のポテンシャルのみが全てではない。チームの総合力があってこそのポテンシャルであることをこれほど教えてくれたレースは未だない。

  の後、R380の後を受け継いだR381,R382はそれぞれ後のポルシェ910、917を実力で破るまでに力を高めていくまでになるのである。