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「究極のロードゴーイングカーを目指して」 9~10代目スカイライン 開発責任者 渡邉 衡三

「最初の仕事はエンジンマウントの設計です。リア側をFRPで設計しろ、と言われましたが、材料を初め機械工学の全知識を試され、不勉強だった新人には難問でしたね」

9~10代目のスカイライン開発責任者、渡邉衡三は自らの新人時代を振り返る。

ミレニアムジェイドと呼ばれる特徴的なボディカラーをまとったR34スカイラインGT-Rの最終限定バージョン、GT-R M-Spec Nur(ニュル)を前に往時を振り返る渡邉衡三氏。

櫻井さんは課題に対してどういう取り組みをするのかを見たかったのだと思います。
図面にはエンジニアの全能力が表れるんです。
材料や熱処理など、機械工学の全知識が必要になるので、基本を学ばせるためにFRP(※註1)で設計しろ、と命じたのでしょう。
しっかり勉強していないと、すぐにボロが出ます。
根掘り葉掘り聞かれるから騙せないのです。

※註1:FRP
プラスティックの一種。通常のプラスティックは弾性(しなり)が少なく、強い力がかかると折れてしまう。そこで、折れ難くするためにプラスティックにガラス繊維などを混ぜて、剛性を上げた素材。Fiber Reinforced Plasticの頭文字をとったもの。

R33、34型スカイラインの開発主管を務めた渡邉衡三は、1967年4月、日産自動車に入社している。

子どものころから飛行機が好きで航空機エンジニアを目指したが、上下Gに弱いことが分かって断念した。
次に好きだった自動車に目を向け、日産に入社したのである。
配属を希望したのはプリンス事業部だ。
中島飛行機と立川飛行機の両航空機メーカーを母体とする旧プリンス自動車の開発スピリットに憧れ、志願した。
配属された第一車両設計部第二車両設計課の実務面のリーダーは櫻井眞一郎である。
直属の上司は伊藤修令だった。

仕事に慣れてくると、後にハコスカのニックネームで愛されるC10型スカイライン(3代目)1500と直列6気筒エンジンを積む2000GTのサスペンション設計を、伊藤の指導の下、担当した。

1969年2月に発売された初代GT-R。レーシングカーR380直系のS20型エンジンを搭載した同車は、サーキットで実に50勝という輝かしい金字塔を打ち立てた。渡邉氏はそのレース用サスペンション部品の設計を担当。

この時期、伊藤は市販車だけでなくレーシングカー、ニッサンR381のサスペンション設計にも関わっている。
その後継マシンが’69年の日本グランプリ制覇を目指したR382だ。
アルミを多用したサスペンションの設計を、櫻井と伊藤から担当を命じられたのが渡邉である。
また、渡邉が設計したレース用サスペンション部品をベースに青地監督が率いるチームが最適なセッティングを行い、幾つもの勝利をものにした。
この設計が一段落した’70年初春に鶴見の車両設計部に設けられた、ESV(先進的な安全設計の自動車)プロジェクト・チームの担当となる。
ここでは車両計画とサスペンション設計を行った。
3年ほどESVの研究に従事した後、再び荻窪のシャシー開発チームに戻り、量産車の開発に携わっている。

プリンス系乗用車やトラックなどのサスペンションを担当しました。
忘れられないのは御料車(※註2)の日産プリンス・ロイヤルのポンプを交換して納めたときの話ですね。
初めて恩賜タバコを頂き、感無量でした。
この直後にC110型スカイラインの回転数感応式パワーステアリングも設計しています。

※註2:御料車
皇族の使用する乗用車。

20代の働き盛りだった渡邉はスカイラインばかりに関わっていたわけではない。
が、サスペンション設計以外にもいろいろなことを担当したことが後のスカイラインの開発に大いに役立っている。

R34スカイラインGT-Rニュルのコックピットに収まる渡邉氏。きちんとしたドライブポジションが取れることを何よりも大切にしてきたという氏のこだわりが随所に満ちている。

時は過ぎ、スカイラインはひとつの岐路にさしかかろうとしていた。
それは7代目R31のハイソカー路線を改め、ドラスティックな変化を遂げる8代目R32の開発がスタートした頃。
渡邊はその開発にあたって実験主担という、クルマのキャラクターを形成する上で極めて重要な立場にいた。

R32型スカイラインのRB20DET型エンジンは気持ちよく回り、実用域のトルクも厚みのあるものにしようと努めました。
ギア比も加速性能を大きく左右するので、いろいろなものを試しています。
アップダウンのある場所でテストしたいと思い、試作車で山岳地帯に行ったとき、大失態を演じてしまったのです。
ぬかるみに入ってスタックしたんですが、救出に向かったトラックも立ち往生してしまいました。
夜が明けてきたころ、やっと出られたのです。
あのときは焦りましたね。

車両設計、走行実験部門と、とかく数字が先行しがちなハード開発の現場に身を置きながら、クルマ好きとして感性に訴えかける、操る楽しみなどソフト面の追求も渡邉氏は重んじた。

そんな失敗も今となってはいい思い出だ。
R32でGT-Rを出すときも苦労の連続だった。
GT-Rといえば、後輪駆動をベースとしながら、路面状況や走行状況に応じて、前輪にも駆動力を配分するアテーサET-S 4WD(4輪駆動)システムを採用していたことでも知られる。

当初の開発プログラムでは、リアデフは機械式のリミテッドスリップデフ(LSD)(※註3)の採用が決まっていた。
しかし、前後輪への駆動力配分を司るET-Sの湿式多板クラッチの保護のためにビスカスカップリング(※註4)を装着することに関しては開発の現場で意見が分かれた。
ビスカスカップリングを装着すれば限界領域でのコントロール性に物足りなさが残る。
そのため渡邉は意のままに操るにはビスカスは不要と判断した。
しかし、ビスカスカップリングを開発し湿式多板クラッチの耐久性を懸念するスタッフからは猛反対され、大騒動になっている。
渡邉はビスカスカップリングの装着を主張するスタッフたちを納得させるために、日産が誇るトップ・テストドライバーである加藤博義の運転するGT-Rの試作車の助手席に乗せた。
実際にET-Sにビスカスカップリングを装着した場合としない場合のフィーリングの違いを体感してもらい、ビスカスカップリング装着を主張するスタッフたちを説き伏せたのだ。

※註3:リミテッドスリップデフ
デフの差動制限装置のこと。通常の後輪駆動のクルマ(のデフ)の場合、例えば走行時に右後輪が凍結路面を通過し、左側が非凍結路面を通過した際、滑りやすい側の駆動輪、つまり右後輪の方により大きな力がいく仕組みとなっている。LSDはこのデフの動きを制限し、いかなる路面状態であっても、両後輪に駆動力を振り分けるシステム。

※註4:ビスカスカップリング
高粘度シリコンオイルを動力伝達の媒体として、その抵抗を利用したトルクの配分や間断を行なう流体クラッチ。

また、GT-Rの性格を決めるときも渡邉は明快な回答を出している。
レースのベース車の様なモンスターに仕立てることもできたが、渡邉は操ってクルマの頂点に立つ高性能車にすることを主張した。
セダンベースの走りのいいクルマがスカイラインだと考えているからだ。
走りを愉しむ、ふつうのユーザーに乗って欲しかったのでドライビングプレジャーに徹底してこだわった。

究極のロードゴーイングカーを目指しましたが、実験部隊の狙ったとおり、いいクルマに仕上げることができました。
結果としてレースでも連戦連勝を飾ることができたのでよかったと思います。
いくつかやり残したことはありましたが、それは次のR33型スカイラインに余すところなく盛り込みました。

と、渡邉は力強く語っている。

そして、9代目R33スカイラインの開発がはじまると、渡邊はスカイラインの方向性のすべてを統括する司令官、商品主管の立場に就くことになる。
それはいたって自然な流れでもあった。

国内外で高い評価を得て、レースでも大活躍したR32スカイラインGT-Rの跡を継ぐモデルとして開発されたのがR33GT-Rである。レースの現場との密接な関係がその性能に磨きをかけた。

渡邉はまた、R33開発のフィールドのひとつに、R32同様、ドイツのニュルブルクリンク・サーキットを組み込んだ。
日産の901活動(1990年までに走りにおいて世界一を狙う)において、メインアクターとR32スカイラインが、世界中の名だたるスポーツカーを相手にナンバーワンを謳うためには、世界の高性能車が開発する場所――すなわちニュルブルクリンクにおいて、走りの性能をラップタイムによって実証する必要があったが、R33にもまたその精神は受け継がれていたのだ。

180を超えるコーナーが連なり、コースの高低差は300mもある。
激しいアップダウンがあり、その先には視界を遮るブラインドコーナーが待ち構えていた。
ドイツ北西にある、ニュルブルクリンクは、1周が20.832kmもある世界でもっとも過酷な公道サーキットだ。
ハイスピードで突っ走るR33型スカイラインGT-Rに容赦なく強烈な横Gと上下Gが襲いかかり、ドライバーに心理的なプレッシャーをかけ続ける。
R33型GT-Rが目標に掲げ目指したのは、当時の市販車としては驚異とも言える8分00秒を切るラップタイムだ。

ダウンフォース(※註5)と空気抵抗それぞれの最適セッティングの両立を狙った可変式のリアウイングを作る。そんな難題にチャレンジした結果生まれたのがR33GT-Rに備わるこのウィングだ。

※註5:ダウンフォース
空気を使って走行時に車両を地面に押さえつける力を発生させる。これによって高速走行時の安定性を飛躍的に高めることができる。しかし、その一方で、ダウンフォース効果が強すぎると、逆に抵抗となって、最高速度が低下してしまう逆効果もある。そのダウンフォース効果の利き具合を、用途に応じてウィングの羽根の角度によって調整しようとするのが、同ウィングの狙いである。

お膝元のBMWやポルシェは言うに及ばず、世界中の自動車メーカーやタイヤメーカーが開発テストのためにニュルブルクリンク詣でを繰り返す。
ここはスポーツモデルの聖地だ。
手荒い洗礼と過酷な条件に耐え抜く性能を身につけたクルマにのみ「名車」の称号が与えられる。

R33型GT-Rは、R32型GT-Rのタイムを21秒も縮めることに成功した。
R33型GT-Rの登場時のテレビCMで、“マイナス21秒ロマン”なるフレーズが大々的に躍っていたことを思い出してみても、それがいかに意味のあることだったがわかるだろう。
大柄になったボディで1km当たり1秒のタイム短縮、これは驚き以外の何物でもない。

R33の開発にあたっては、R32が確立した走りのDNAを色濃く受け継ぎながら、時代や市場に即した変化を求められ、結果ボディサイズを大型化するという策がとられた。
いたずらな変化は追わず、良いところは残す。
そんなスタンスはR33、次ぐR34にも引き継がれていったのである。

なかでもその一例として挙げられるのが、スカイラインGT-Rの神話のひとつにあげられるのがフロントシートだ。
「GT-Rのシートは最高だ。これだけはモデルチェンジしても変えてほしくない」と、当時多くのR32ユーザーの間では共通意見となっていた。
RB26DETT型直列6気筒DOHCツインターボを搭載するスカイラインGT-Rのドライバーズシートに腰を沈めてみれば、その理由が分かるはずだ。

R32GT-Rのモノフォルム(シート全体の一体感を強調したデザイン)シート。多くの評論家をして、メーカー自製のシートとしては最高峰の出来と言わしめた逸品だ。

最初の作品であるR32型のモノフォルムバケットシートに座ってみる。
太もも、腰、そして肩までを連続的、多角的に支持する優れたフィット感のシートだ。
これに続くR33型も表皮こそ違うが、着座フィーリングは変わらない。
2代に渡って同じ形状のシートを採用するのは冒険だ。
だが、変えなかった。
変えないことはエンジニアの自信の表れと言える。
ファイナルバージョンとなったR34型はショルダーサポートとサイドサポートを向上させた。
が、基本的な形状はR32型と変わっていない。
シートの歴史に残る名作と言えるだろう。

渡邉はクルマの走行性能に関わる、シャシーやサスペンションといったフットワークだけでなく、人間がクルマを操縦するに当たって体躯を支える基礎となるシートのフィット感にも徹底してこだわった。
R33型スカイラインはGT-Rを含め、リアシートの快適性に並々ならぬ努力を払った。
R33型スカイラインは、大人が4人快適に座れることを開発目標のひとつに掲げている。
セダンだけでなく2ドアクーペもリアシートのサポート性を向上させ、快適にロングドライブを楽しめるようにした。

R33型スカイラインはホイールベースを延ばし、後席の居住スペースを広げている。
快適性は飛躍的に高められた。
が、ボディは大柄になり、車両重量も増している。
多くの人は、R33型スカイラインは基準車だけでなくGT-Rも気持ちよく走らない、と先入観を抱いた。
しかし、渡邉は素人にも分かるように速さと素性の良さを、世界の名だたるスポーツカーの開発者たちがベンチマークとするニュルブルクリンクのラップタイム、という一目瞭然の数値によって証明したのだ。
まだ開発途上にあるR33型GT-Rをニュルブルクリンク・サーキットに持ち込み、R32型と同じ280馬力の最高出力ながら、シャシー性能の向上によってラップタイムを21秒更新し、400馬力オーバーのスーパーカーばりの7分台で走らせたのである。
これほど分かりやすい説得方法はなかった。

R32型GT-Rは好評を博しました。
でもアンダーステアが強い、舵が利かない、と言われ続けました。
R33型はベース車両のポテンシャルを飛躍的に高めています。
また、バッテリーをリアトランクのなかに収めるなど、前後の重量配分にも気を遣いました。
アンダーステアを消し、それからさらに気持ちいい走り、愉しい走りを高めていったのです。

GT-Rは10年に一度だけ出せばいい、という首脳陣もいた。
しかし、渡邊は“継続して出さなければライバルにおいていかれます”と主張し、説き伏せた。

R34型も難産でした。
ユーザーの嗜好がミニバンにシフトし、セダンがかろうじて生き残っている時代だったのです。

渡邉氏が陣頭指揮をとり、ドイツのニュルブルクリンクで鍛え上げた2台のスカイラインGT-R、R33(右)とR34(左)との1カット。

日産の経営状態も思わしくなかった。

当然、GT-Rの開発続行を渋る声も出ました。
個人的には水野和敏(R35GT-R開発総責任者)などが提案したV型6気筒(V6)エンジンのプラットフォームが次期型スカイラインには相応しいと判断したが、投資額が大きくなるので断念せざるを得ませんでした。
V6エンジンが無理なら現在のレイアウトのまま玉成させようと考え、直6ならではの更に気持ちの良い走りを実現するため走行中の車体剛性が高く、骨格がしっかりとしたクルマを作るように努めました。

それから10年以上の歳月が過ぎ、渡邉はかつて自身が夢見た、V6エンジンを積むV36スカイラインのステアリングを握った。

取材の行われた神奈川県座間の日産記念庫、およびカレスト座間には愛車R34スカイラインGT-Rを駆って登場した渡邉。開発の現場を引退した今も、スカイラインを愛してやまない。

アクセルが思いのほか早く開くし、個人的には4WSの操舵フィールの味付けに未だ改良の余地が有ると思いますが、“スカイラインの血”を感じるクルマですね。
操って、乗って愉しいクルマです。
これからのクルマは乗っている人だけでなく、周りの人にも優しいクルマじゃないと世間は認めてくれないでしょう。
そのなかで自分が操って動く、ステアリングを握っていると気持ちよく気分が高揚するということが大事な要素になると思います。
これからもスカイラインは操る愉しさを忘れないで欲しいですね。

開発の現場から離れて久しいが、渡邊のスカイラインへの想いは深い。

■プロフィール:渡邉 衡三(わたなべ こうぞう)
1942年大阪生まれ。1967年、日産自動車に入社。最初に配属されたのは車両設計部。以後、ESV開発、シャシー設計を担当。1990年から車両実験部へ加入。R32スカイラインでは実験主管を担当しR33、R34では商品主管(開発総責任者)となる。1999年よりNISMO(ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル)に出向し、2006年に引退。

※この記事は、SKYLINE BLOGで2008年8月29日に掲載されたものを編集しています。