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「人を幸せにするクルマとは」 7~8代目スカイライン 開発責任者 伊藤 修令

「初代スカイライン、ALSI型に感銘を受けたんです。この素晴らしいクルマを作った人たちに憧れて、プリンス自動車の前身だった富士精密工業を就職先に選ぶことにしました。広島から20時間かけて東京に行ったんですよ」

そう語るのは伊藤修令。

座間記念車車庫にてインタビュー

1959年来、櫻井眞一郎のもとスカイラインの開発に参画。
1985年には開発主管のバトンを櫻井から直接受け継ぎ、8代目R32スカイラインをもって、国産随一のスポーティセダンという地位を復権。
さらにスカイラインGT-Rの16年ぶりの復活を実現するなど、近代スカイラインの方向性を磐石なものとした立役者といえる人物である。

櫻井眞一郎氏から7代目R31スカイライン開発の途中で開発主管のバトンを受け継いだ伊藤氏。
それが故に7代目R31スカイラインには特別な想いもあるようだ。

――1985年11月、快晴の富士スピードウェイに甲高いエキゾーストサウンドがこだまする。
武骨な2ドアセダンは、ストレートでもコーナーでも群を抜いて速かった。
しばしの間、食い下がるマシンもあるが、すぐにミラーの外へと飛んでいく。
衝撃的な速さを見せつけたのは「空飛ぶレンガ」の異名を取るボルボ240ターボだ。
2台のボルボは編隊でレースを席捲し、ジャガーもBMWも足元に寄せ付けなかった。
もちろん、日本車で追いつけるマシンはない。

伊藤氏が忘れられないエピソードとして語るボルボ240ターボと6代目R30スカイラインとの死闘。『全日本ツーリングカー選手権第5戦』、富士スピードウェイにてのカット。

苦虫を噛み潰したような顔で、この独走劇に見入っていた男がいる。
7代目R31スカイラインの開発統括部主管となった伊藤修令だ。
激励のためにインターTEC(国際ツーリングカー耐久レース)を観に行ったが、6代目R30スカイラインRSターボは歯が立たなかった。
ボルボなどのヨーロッパ製マシンに太刀打ちできなかっただけでなく、他メーカーの日本車よりも順位は下だったのである。
惨敗だった。
悔しさをかみ殺し、伊藤は誓った。
「次期型(R31)スカイラインでは絶対にGT-Rを復活させ、ブッチ切りの速さで連戦連勝してやるぞ」と――。

伊藤修令は広島県竹原市の生まれである。
実家が精米店だったので、常にトラックが出入りしていた。
まだ自動車が珍しい時代だったが、そんな環境も手伝い、子どものころから自動車には自然と親しみや興味を抱くようになった。
そして気がつけばバックで店内に入ってきたトラックのタイヤの軌跡を飽きることなく観察するようになるなど、いわゆる機械モノへの興味は尽きることがなかったのだという。

広島大学の工学科に入学し、エンジニアを志して機械工学を学んでいた2年生のとき、伊藤の人生に大きな影響を与える出来事が起こる。
初代スカイラインの発表である。
そして伊藤は、スカイラインにひと目惚れした。

1957年に発売が開始された初代スカイラインALSI型。

このクルマに感銘を受けたことによって、伊藤はクルマ作りを生業とすることを決心した。
晴れて入社した富士精密工業。
最初に配属されたのはエンジンマウントの部署だった。
それからしばらくして足まわりの設計部署へ移ることとなった。
ここで待っていたのは運命の出会い。
直属の上司は、仲間から“鬼”と呼ばれていた櫻井眞一郎だった。
櫻井は部下に厳しいことで知られていた。
伊藤も例外ではなく、配属されるや手荒い薫陶を受けた。

最初の日、机に座ってタバコを吸っていたら“馬鹿者、新人のくせに何だと思っているんだ”と怒鳴られました。

仕事では特に製図に関して並々ならぬコダワりを持っていた。

烏口(註:製図用の特殊なペン。金属で出来たペン先の形状がカラスの口に似ていることからそう呼ばれる)で図面に線を引くんですが、ちょっとでも線の幅が違うと何度でもやり直しをくらいました。
これは鉛筆になっても変わりませんでした。
晴れている日は鉛筆のノリが悪いので、筆圧を微妙に調整し、きれいに書けるようにするんです。
両端まで幅が一定になるように、何度も練習しました。

櫻井さんは“設計図面は現場を指揮する大工の棟梁みたいなものなんだ。だからこそ設計図面はその各部品の金型を作る担当者の誰もが分かりやすいように、魂を入れて線を引け”と口うるさく言い続けていたんです。

その他にも、一部分に無理がかかって局所的に壊れないようにするには全体としてのバランスをきちんと取ることが大事、という考え方を櫻井さんに教えてもらいましたね。

インタビュー当日も、自分が開発携わった8代目R32スカイラインGT-Rを駆られて取材場所に颯爽と登場。今なお、スカイラインを愛してやまない。

後に櫻井学校と呼ばれるようになる、櫻井が直接、自動車開発のイロハを教えた部下の、一番弟子ともいえる伊藤は、新人時代から櫻井と共にした日々をそう振り返る。

思えば初任給は1万4000円だった。
当時スカイラインは高級車で、その100倍近いプライスタグを掲げており、まさに高嶺の花。
憧れのクルマの開発に携わりながら、自分ではそれを決して手に入れることはできない。
そんなジレンマを伊藤は、“技術は人の幸せになるものでないとダメだ”、という考えをクルマ作りの中に見出すことによって、歓びへと変えた。
後にこれは伊藤のエンジニアとして間の信条であり続けた。
その信条は自動車開発の現場を離れた今も、心に焼き付いているのだという。

櫻井眞一郎のもと、その一番弟子としてらつ腕を振るった伊藤修令。
櫻井が開発の第一線から退く際には、次いでスカイラインの開発責任者の座に伊藤が就くのは自明の理と言えた。
そして、ついに伊藤にそのバトンを受け渡される時が訪れた。
それは7代目R31スカイラインの開発が終盤に差し掛かろうかという時分。
言ってみればR31スカイラインは櫻井の思想が色濃く反映されたモデルであり、伊藤はその開発を補助的にサポートしてきた立場にあった。
やはり開発責任者と名乗るからには、自らがゼロから立ち上げた商品をもって、評価を受けたい――そんな思いを胸に秘めた伊藤ではあった。
しかし、皮肉にもR31の評価が世の自動車ジャーナリズム的にかんばしくなく、伊藤は期せずして容赦ない言葉を浴びせられることとなる。

開発終盤にして、伊藤氏が櫻井眞一郎氏から開発責任者のバトンを受け渡された7代目R31スカイライン。ハイソカー(※註)ブームと呼ばれる流行に乗じた、高級路線を採ったモデルだった。

(※註)
ハイソカー:ハイソサエティ・カーを略した和製英語で、トヨタが’84年に発表した中型車、マークⅡ、クレスタ、チェイサーという3種の兄弟車の爆発的なヒットによって一大ムーブメントとなった。同社の大型上級車、クラウンさながらの豪華けんらんな装備やデザインテイストなどを、価格的にも手頃な中型車に取り入れることによって、バブル景気を目前に、上級志向の強まった、中流層に幅広く支持された。日産では7代目R31スカイラインの他、5代目ローレルなどがそれにあたるとされる。

伊藤が忘れられないエピソードとして語ることがある。
それはジャーナリスト向けに行われた、R31の試乗会でのことだった。
ある高名な自動車評論家が、試乗を終えてクルマから降りてくるなり、開発陣を前に声高に叫んだ。

「こんなのスカイラインじゃないよ。新しい直列6気筒エンジンは高回転まで気持ちよく回らないし、ターボはパンチ力が足りないね。ハンドリングなどの乗り味にもスカイラインらしいところが出ていないよ」

そう言い放ったのである。
伊藤は、その自動車評論家をにらみつけ、悔しさに唇をゆがませた。
同様の意見は、R31型スカイライン発表直後に回った日本各地のスカイライン取り扱いディーラーでも、現場のカーライフアドバイザーから聞かされることとなった。
デザインから走りに至るまで強烈なバッシングを受けたが、こういった意見もかなり多かった。

「やはり櫻井(眞一郎)さんがやらないとダメだね。櫻井さんがやらないスカイラインはスカイラインじゃないよ」

伊藤修令は怒りを抑えながら、「次のスカイラインは、そうは言わせない。スカイライン党やクルマ好きを魅了する、世界一の走りのスカイラインを生み出してやる」と、心の中で叫んだ。
1985年夏のことである。

容赦なく浴びせられるバッシングに耐えながら、伊藤は次期R32スカイラインの企画検討を開始した。
スカイラインのことを好きな人だけでなく、スカイラインを嫌っている人にも意見を聞くなど、周到に市場調査を行ったのである。
当時としては非常に多い、600人を対象としたグループインタビューを敢行し、そこからひとつの結論を導き出した。

伊藤氏へのインタビューの収録場所となった座間の記念車車庫には歴代スカイラインがズラっと居並ぶ。写真向かって一番左が伊藤氏が開発に尽力した8代目R32スカイラインである。

プロダクト・マーケティング活動を行ってみたら、自分たちの考えているスカイライン像が間違っていないことが確認できました。
ですから、8代目R32スカイラインには、スカイラインのDNA――、つまり運動性能の高さやレースシーンで培ってきた伝統や先進技術など、スカイラインが他の車種に対して持っているアドヴァンテージをふんだんに取り込むことを決めました。
すべてのクルマがオールマイティじゃなくてもいいと思います。
例えばミニバンのように室内空間を広く採ろうと思えば車高も高くなって、操安性が低下してしまうのは避けられないわけですしね。
だから“弱みを隠すのではなく、いいところを伸ばしたほうが存在価値を示せるクルマになる”と私は思うんです。

と、伊藤は設計哲学を述べている。

8代目R32スカイラインが目指したのは、軽量コンパクトで扱いやすいスポーツセダンだ。
R31に比較して大幅に全長を切り詰めるなど、R32のダウンサイジングに関しては反論も多かったが、卓越した走りを実現するために軽量化とコンパクト化を徹底して推し進めている。

軽量コンパクト化は、アスリートがぜい肉をそぎ落とすのと同じ原理で、余剰な空間を廃し、機能を車体の中央に集中させていくことによって、ドライバーのステアリング操作に対する車両の回答性を高め、コーナーリング時における車両の安定性を向上させることが可能となる。
また、自慢の直列6気筒エンジンはパワフルに、しかも気持ちよく回るように改良を加えた。
サスペンションは、当時の日産の持てる技術を結集して開発された4輪マルチリンク式を装備。
“走る条件を揃えたら絶対に売れるはずだ”、というスカイラインの開発チームの信念と情熱が実る形で、日産の市販車としては初採用となった。
4輪操舵のスーパーHICASにも改良のメスを入れ、さらに完成度は高まった。

先代モデル比で、全長を2ドアモデルで-130mm、4ドアモデルで-70mm切り詰めてダウンサイジングし、動力性能の向上が図られた8代目R32スカイライン。写真はGTS-4グレード。

伊藤はR32スカイラインの頂点に、イメージリーダー、シンボルとなるGT-Rを復活させようと構想を練っていたのだ。
GT-Rをフラッグシップにすれば技術の日産を誇示することができる。
また、スカイライン・ファンの心を引っ張ることもできるだろう。
デビューから3年間は絶対にレースで負けないほど高いポテンシャルを秘めた究極のツーリングカー、それが伊藤が目指したGT-Rだ。

伊藤氏が8代目R32スカイラインの開発にあたって、最大の秘策としていたのが、レースでの勝利を使命とされたスーパーウェポン、名跡“スカイラインGT-R”の復活である。

1989年5月、R32型スカイラインは正式発表された。
壇上に立った伊藤修令は、挨拶の最後に誇らしげに宣言している。

『これは“私”のスカイラインです』

7代目R31の発表時に開発責任者として受けた、“不本意なバッシングの数々”。
それはR31スカイライン自体がクルマとして何か問題があったというよりも、根幹には“R31が既存のスカイライン・ファンが思い描くスカイライン像からのかい離したこと”に対する違和感が何よりも大きかった。
そして、それを誰よりも強く思っていたのが、他ならぬ伊藤であった。
伊藤は今もなお、8代目R32スカイラインの開発に明け暮れた日々のことをまるで昨日のことのように鮮明に覚えている。

自らが思い描く、理想のスカイライン像を追い求め、8代目R32スカイラインの開発にあたった伊藤氏。
厳しい時代を振り返るときも、話しぶりは非常に柔和で笑顔を絶やさない。

「まだ剛性が不足している。入力のきつい路面でもシャキッとした走りを実現するためには、シャシーだけでなくボディやサスペンションもしっかりしていないとダメなんだ。だから早急に設計を見直してほしい」

走り終え、ヘルメットを脱ぐとテストドライバーは試作車の走りの印象について担当エンジニアにそう語り始めた。
担当エンジニアたちは、それを一字一句聞き逃すまいと、必死にテストドライバーの話に耳を傾ける。
なぜか――。
そんな光景を思い出しながら伊藤はこう話す。

エンジニアたちには“走行実験を担当しているドライバーの意見は『神の声』だと思え”とさんざん言い聞かせました。
クルマを評価するうえで大事なのは、データはもちろんですが、それ以上に人間のフィーリングが大切なんですよ。
それゆえに実際に走行実験を行っているドライバーの声に真摯に耳を傾ける必要がありました。
それまではデータを重視するあまり、テストドライバーの声がおざなりにされる傾向がありました。

伊藤が考えていた新しいスカイラインは、既存のスカイライン・ファンに加えて、新たに若者をも取り込む新世代のスカイラインだった。
だからこそ伊藤は開発の現場で、「走るスカイラインにするんだ」と常に言い続けた。
そのためにサスペンションのレイアウトまでも新しくしている。

スカイラインは世界中のどのクルマにも負けない、気持ちいい走りを目指したのである。
これはいわゆる『901(キューマルイチ)活動』へとつながることになる。
“1990年までに走りにおいて世界一を狙う”、このスローガンのもとスタートしたのが『901活動』だ。

1986年秋、シャシー設計の部署から出された提案をくみ上げる形で『901委員会』が発足した。
これはプロジェクト901とも呼ばれる社内の啓もう活動である。
各セクションに901委員会を設け、中間管理職が中心となって活動を盛り上げた。
日本専用モデルの主役はR32型スカイラインだ。
北米はZ32型フェアレディZ、ヨーロッパはP10型プリメーラを活動の主力モデルと位置づけている。
とりわけ熱心に取り組んだのが、伊藤を中心とするスカイライン開発チームだ。
シャシーやサスペンションだけでなく、ボディやエンジンまで、全項目のポテンシャルを高めることに挑んでいる。
また、901連絡会を作り、イベントまでも開催した。

R32のモデルチェンジをさらに劇的なものに演出したのが、往年のビッグネーム、“スカイラインGT-R”の復活だ。グループAレースでは、圧倒的強さでライバル他車を駆逐してしまった。

スカイラインにとって世界一とはどういうことなのか?それはハッキリしています。
人間が思ったとおりに走るクルマ、レスポンスのいい走りのクルマです。

ターゲットを決め、世界一とされるクルマを超えることを目指しました。
仮想ライバルは、いろいろなクルマの中からバランスの取れた、いい走りをするポルシェ944ターボにターゲットを絞りました。
GT-Rに関して言えば、944ターボよりもっと上のレベルを狙いました。
R32スカイラインの901活動が中途半端なものだったら、たいしたクルマにしかならなかったでしょう。
901活動をまじめにやったからヨーロッパのスポーツカーを凌駕する走りを開発目標にすることができたのだと思います。
すべてのエンジニアが走りを支えるサスペンションやエンジン、シート、操作系などを高いレベルに引き上げようと努めました。

そんな伊藤の言葉を裏付けるかのように8代目R32スカイラインは、「ベストハンドリングFR(フロントエンジン後輪駆動)車」との称号を与えられるなど、各方面から絶賛された。
さらにスカイラインGT-Rの復活によって、見事なまでに「走りのスカイライン」は復活を遂げたのである。

取材場所には自らの運転で、愛車の1995年型R32スカイラインGT-R最終型と共に登場。新車で購入して以来、13年乗り続けている。ご覧のとおり、隅々まで手入れが行き届いている。

実はV36スカイラインを運転するのは初めてなのだという。
スケジュールの都合上、伊藤がステアリングを握ることができたのはわずか10数分というせつなだったが、笑顔とともにこんな印象を語った。

ボディサイズが大きいから、鈍重な動きなのかな、と思っていたらとんでもない。
さすがに3.5リッターのV型6気筒エンジンはパワフルですね。
ボディ剛性も高く、サスペンションが非常にしなやかに動きますね。
内装のクオリティも高くて、いい印象を持ちました。
走りの味わいはスカイラインの目指す走りになっているんじゃないでしょうか。
十分にスカイライン・イズムは継承されていると思います。

インタビューも終盤に差し掛かり、伊藤は初夏の夕暮れ、最新モデルであるV36型スカイラインのステアリングを握った。

話は伊藤の“スカイライン観”に及ぶ。

私はスカイラインのことを、クルマではなく、人生の友だちだと思っているんです。
だからね、“スカイライン君”って呼んでるんですよ。
半世紀を超す人生の中で“スカイライン君”は成功と失敗を繰り返してきました。
私は彼とずっと一緒でしたから、その悲喜こもごもが聞こえたんですよ。
ただ、そんな“スカイライン君”の声に耳を傾けるだけでなく、逆に彼から教えられることも多かった。
“ここはこうしろ、こういうことをやっちゃダメだ”ってね。

伊藤にとって、スカイラインは単なる工業製品ではないのである。
話はスカイラインから自動車全般に広がっていく。

これから先、スカイラインを初めとする自動車は大きく変わっていくでしょう。
数多くの難関が待ち構えていますが、新しいテクノロジーで難問を乗り切っていくことを期待しています。
また、歴史に学んでほしいですね。
人間が幸せになるために開発されたのが“モノ”なんです。
地球が汚れてしまってはいけません。
人が幸せになるようなクルマ造り、これはいつの時代も変わらないことだと思います。

V36スカイラインをドライブして、伊藤が真っ先に指摘したのがボディ剛性の高さだ。
和紙調のフィニッシャーなど、インテリアの作りこみや精度の高さにも好印象を持ったようだ。

伊藤はスカイラインの設計哲学を引き合いに出しながら未来のクルマについて語った。
そこにはスカイラインと共に、日本のモータリゼーション創成期から、現在にいたるまで、実に半世紀以上携わってきたエンジニアならではの含蓄に溢れていた。

■プロフィール:伊藤 修令(いとう ながのり)
1937年広島生まれ。1959年、のちに日産自動車と合併するプリンス自動車工業(当時の富士精密工業)に入社。以後、櫻井眞一郎氏のもとでシャシー設計を中心に手腕を奮う。1985年より櫻井氏の跡を継ぐ形でスカイラインの開発主管となる。後にオーテックジャパンの常務取締役、ニッサンモータースポーツインターナショナルのテクニカルアドバイザー他を歴任。

※この記事は、SKYLINE BLOGで2008年7月22日に掲載されたものを編集しています。