スカイライン誕生秘話
第1章・・・FMプラットフォーム構想

□それは市販車でのルマン挑戦から始まった・・・94年度
   P10プリメーラ、R32スカイラインなど、90年代初頭を飾った日産の名車の基本パッケージ設計を手がけた水野和敏が、五年間のワークスレース専任活動を終え、日産テクニカルセンターに車両設計課長として復帰したのは、93年のことであった。設計とはいえ彼の担当は個々の部品ではなく、エンジン、キャビン、トランク、タイヤ、そして乗員といった車両の基本要素をレイアウトする"車両パッケージ設計"であり、数々のレース車両を短期間で開発し戦闘力を高める、という世界での実績と経験からは、まさに打ってつけの業務であった。

 ところが、ワークスチームの総監督チーフエンジニアから、再び自動車メーカーのエンジニアの頂点ともいうべき活躍の場を与えられた男の心中は、必ずしも晴れ晴れとはしなかった。

 競争力を保つために、毎シーズンごと、時には一回のレースごとに、大幅な進化を宿命付けられたレースカーの世界に対し、莫大な投資を伴う量産を前提とするがゆえに、市販車の進化は容易ではない。

 このままでは、日産は量産FRメーカーとしての地位から遠からず脱落してしまう、そんな焦りから水野を救ったのは、またしてもレース活動であった。かつてデイトナ24時間レースで日本車初の優勝を勝ち取った現設計課長に、「市販車として開発中のR33GTRをベースに翌年のルマンで戦えるマシンを仕立て、監督として指揮せよ」という兼任辞令が下ったのは、94年の初夏のことであった。

□矛盾を解くFMパッケージ・・・95〜96年
   GTRと言えども、4人乗りの3BOXとして月に数百台を販売する実用車をベースに、市販とは名ばかりにレースだけに焦点を絞って開発されたマクラーレンF1GTR等と互角に渡りあうマシンを作り上げることは、エンジニアとしての弱みを決して見せることのない水野にとっても、当初とてつもなく大きなハンデとしか映らなかった。この時点では彼も、レーシングマシンに求められる性能と市販の乗用車に求められる商品性とは、真っ向から対立するものだと信じて疑わない、一人の常識的な自動車エンジニアに過ぎなかった。

 おりしも迎えた自動車メーカーならではの十日間の夏休みは、自宅の一室で車両のパッケージング構想に没頭する時間を与えた。ユノディエールの長い直線での安定した高速走行を可能にするためのロングホイールベースと空力性能、コーナリングスピードを上げるためにガスタンやエンジン等の重量物を車両中心に置く低ヨー慣性モーメントレイアウト、同一のフェンダー内で最大限のグリップ力と耐久性をもたらす大径タイヤ、24時間を分担する複数のドライバーの車両感知能力をそれぞれ最大限に引き出すためのドライビングポジションとチルトメーター・・・。レーシングカーとしての戦闘力を高めるための基本パッケージは、水野の頭の中で一挙に形づくられていった。

 「水野さん、なんでこれを量産車に使わないの?」市販車ベースのハンデを打ち消すために、彼がその年の夏にやむを得ず考え付いた、このフロントミッドシップのレースカーパッケージの特徴が、見方を変えれば、そのまま乗用車としての商品性向上につながることに気づかせたのは、翌年春の鈴鹿、GT選手権開幕戦での、ジャーナリストの素朴な一言であった。

 そう言われて水野が思い出したのは、兼ねがね彼自身が不思議に感じていたレーシングドライバー達のふるまいであった。レース直前の調整でベストラップをたたき出したサスセッティングに対して、ドライバー達はなぜか、例外なく「これが一番乗り心地が良かった」という感想を口にすること。空力的な障害として、コクピットから見えていた左右のフェンダー前端の膨らみを無くした途端に、筑波のラップタイムが一秒以上悪化したこと・・・。

 レーシングドライバーを中心に置いて発想した「メカミニマム」のパッケージが、そのまま一般ユーザーにとっても「マンマキシマム」のパッケージに成りうることに気づいた瞬間、それまでエンジニアリング上は対立する性能としか考えられていなかった、操安性能と乗り心地、操縦性と居住性、安全性とデザイン、といった様々な矛盾を解決することができる、V6専用のフロントミッドシップパッケージ、すなわち「FMパッケージ」の構想が生まれた。

Menu Next